いま、精神分析を学ぶということ (西園昌久)

先日、日本精神分析学会学術集会が福岡国際会議場で開かれた。このところ、福岡に限らず、出席者が多いのは知っていたが、今年も、会長講演やシンポジウムの時など、あの広いメインホールが満席になったのには驚きもし感激もした。今年は60回になるそうであるが、60年前、慶応大学病院で開かれた時は、その階段教室の1つで充分であった。この発展ぶりは驚くに値する。
しかし、現実の精神科医療の中では、精神科医は、いつかの段階に精神分析に触れた人以外は殆ど精神分析や力動精神療法に無関心で必要性を感じていないらしい。多数の患者を毎日、相手にしていると自然そのようになるのであろう。それでは、いかぬと思うクリニック精神科医は臨床心理士に協力を求めて、精神療法を依頼している。こうした精神科医の傾向はもともとのわが国の精神科医にあったものである上に、「証拠に基づく医学」が喧伝されたことと関係あるだろう。精神分析療法はS. Freudの症例報告から始まったが、Freudによって実際になされた報告は5例にすぎない。そのうち、Freud自身が治療したのは周知のように3例である。もちろん、週5日、終日、晩年まで多くの人の分析治療に専念したのはよく知られていることである。しかし、今日の一般的な研究からいえば少数例である。個々の症例の理解から多くの人一般の特性を洞察する方法を提言したのである。つまり、”1を知って10を考える”という認識法である。学会などで、症例報告が歓迎されるのはそのような思考形式を聴く人が持っているからであろう。その点では、「証拠に基づく医学」の判断は、”10を知らねば1が正確には判らない”という思考形式なのであろう。ところが多くの方がご存じのように、韓国では専門医の教育は医師法で決まっていて、その教育と認定を委託された韓国神経精神医学会は、4年間の研修期間に精神療法を重視するカリキュラムを組んでいて、理論と技法の講義のほか、4年次には、スーパービジョンを受けて実際の治療を担当し、それを論文にすることまで規定されている。その精神療法は力動的精神療法である。アメリカの場合、いくつも精神分析家の組織があるが、アメリカ精神医学会と関係のふかいAmerican Academy of Psychoanalysis and Dynamic Psychiatryは、アメリカ精神医学会年次大会で「20分面接の技法と効用」と題するシンポジウムを開いたり、アメリカ精神科医の長老で組織しているAmerican College of Psychoanalysisでは、「若い精神科医に精神分析を教育するには」といったキャンペーン事業を始めるといった情報があるので、アメリカも様変わりして、精神分析教育は退潮なのだろうと思っていた。ところが、最近驚く情報を目にした。前田麗奈さんと勢島奏子さんというお二人が「日米の精神科臨床研修から見えること」と題して週刊医学会新聞(3095号、2014,10.6、医学書院)に寄稿している。その中で前田さんは留学先のデューク大学のことを次のように報告している。”米国の研修において特徴的なのは、精神療法が必修項目であることではないでしょうか。実際デューク大学でも、薬物療法のみならず、精神療法の教育も重視されています。4年間を通しての各種の精神療法を基本に、2年次では毎週、面接の基本技能の個別指導の時間があります。3年次では通年で家族療法のローテーション、毎週の症例スーパーバイズの時間があります。また、必修ではありませんが、自身をよりよく理解して治療に生かすことを目的として精神分析などの精神療法をレジデント自身が継続して受けることも奨励されています。保険にもよりますが、毎回20ドルほどで受け続けることは可能です。面接技能の指導については、レジデントと患者さんとの実際の治療の場を、指導者がマジックミラーを通して観察するobserved interviewに重点が置かれています。・・・(中略)・・・患者さんの同意を得た上で公開で進められるため、他のレジデントや指導者の治療の場にも立ち会える貴重な学びの機会となっています。”文化のちがいや患者の人権の問題もあって、これらのすべてをわが国にも適用できるものではないが、精神科医が治療者として病める人に関わる際の責任性を尊重していることは学ぶべきではなかろうか。
わが国の現行精神科医療の改革にあたって「こころの健康政策構想会議」が発表した提言書(2010,5.28)の中には、”現在、わが国では40人に1人以上の人びとが精神科を受診するようになりました。・・・(中略)・・・初診の場合でも充分時間がとれないためもあり、受診者の受ける医療の印象が芳しくなく、受診しても3か月で3分の1以上の人びとが治療を中断していること、それが治りに悪い影響を与えていることが各種の調査で指摘されています”と記されている。面接時間の短さの問題だけではないだろうと思える。
現在、精神科医療の中では、精神分析は退潮で症状水準の改善をはかる精神療法が第3者機関からも喧伝されている。軽・短・安を求める世相も反映して正式の精神分析療法でカウチを使っての週4日の治療を行うのは極めて困難になっている。しかし、火を消してはならない。
日頃、診療をしながらつくづく思うことは、人格形成段間でのコミュニケーション能力の発達についての今日的問題である。例えば、(1)幼少時の家庭内緊張、両親の不和、離婚、親が再婚した場合の継父あるいは継母への適応の問題、(2)少子化にともなう同胞間コミュニケーションの機会の減少・消失、(3)昔型地域における伝統的遊びの消失、(4)塾通い、TVゲームなどの孤独な生活、(5)インターネット、携帯電話への傾倒、(6)思春期における孤立・いじめ、(7)未婚男女の増加、”他人と生活するのは面倒”、こうした問題は特別なことではなくなった。Freudが精神の健康の指標として、「愛することと働くことの能力」をあげた。その視点から考えると精神的不適応は大きな社会的課題になりかねないと思われる。現に、先に紹介した「こころの健康政策構想会議」が指摘しているのはそのことである。しかも、そのような「こころの問題」が人格形成段階での不具合と関連するとすると「症状レベル」の治療のみでは十分な対応ができるとは思えない。精神分析療法へのニーズは潜在的、あるいは顕在的に増大するだろう。冒頭に記した精神分析学会への若い人びとの驚くほど多数の参加はそのことを先見してのことであろう。ただ、精神分析が精神障害の治療法の1つとしてのみ存在し続けるとは限らないであろう。精神分析を学んだ臨床心理士が、精神科医療とは別個に活躍する可能性は大いにあるだろう。
ただ、現在の精神分析療法に対する世間の評価は精神科医療の中の停滞と無関係ではない。Kernberg, O. (2012)はそのような状況を改善するため、5つの勧めを発表しているが、その第1に「地域の大学とライフラインを樹立すると」をあげている。精神分析療法を行うには、セミナーの受講、スーパービジョン、さらには訓練分析の経験が必要とされている。最近、日本精神神経学会の年次大会や専門医講習会に精神分析家が講師として参加する機会ができつつある。私自身も、研修医や学生を対象にした同学会主催の2014年次の「サマースクール」に求められて、「精神療法について」をお話しする機会を持つことができた。こうした活動を「各地域」に浸透させたいものである。