S. フロイト没後75年(西園昌久)

来年、2014年はフロイト没後75年である。私が会員になっているAmerican Academy of Psycoanalysis and Dynamic Psychiatryでは、来年5月ニューヨークの年次総会でフロイトを記念した学術集会をやるという。この学会は国際精神分析協会とは無関係で精神科医の集まりであるがアメリカ精神医学会と密接な関係を持っている。アメリカをはじめ発達国で精神分析の退潮がいわれる中で、そのような学術団体が、「フロイト没後75年」をテーマに、その後の精神分析のありようを論じるというのは興味をそそられる。おそらく世界各地でそのような催しが行われるであろう。
こんどの京都での日本精神分析学会の主要テーマは「これからの精神分析臨床が目指すもの」だった。実際の精神科医療の中で一般精神科医の関心の著しい退潮にも拘わらず、学会員の総数は膨大という奇妙なコントラストを止揚するにふさわしいテーマであった。

私は都合で、一日しか出席できなかったが招待講演のDr.シュルマンの「外傷患者が耐えられないものに耐えられるようにすることー解離からのコンテインメントと統合」と題する招待講演を楽しむことができた。その中で報告された症例ではないが当事者が幼少期における両親の離婚、その後、母親の別離、継母との間でつくられる「いつわりの自己」、「思春期でのはやすぎる性」などなど、わが国でも子どもにとっての外傷体験は急激に増加している。そのように考えると今後の精神分析臨床のあり方、存在意義を考えるにふさわしい招待講演だった。

Dr.シュルマンの講演の中で、私にとって勉強になったのは、まず、「外傷体験は、壊滅の不安にさらされることを意味する。その犠牲者は壊滅させようとする脅威に同一化し、自身の壊滅の不安を壊滅していく、このことが、そもそもの壊滅の不安と識別されねばならない二次性の壊滅の不安をもたらす」という認識であった。この認識はA.フロイトの「攻撃者との同一視」に通じるものがあろうが、私が診ている幼少期に性的外傷体験のため認知機能の発達さえ障害されたある症例がトッサの折に見知らぬ外国人の接近に無分別になることの理解に導いてくれた。

今ひとつは、外傷患者に対する精神分析家のコンテイン能力をめぐってのことである。当日のDr.シュルマンと指定討論者の共感との関係についての質問にかなりの時間をかけて答えておられたが、このビオンのコンテインについての考えは充分議論して理解されるべきことであろう。コンテナー/コンテインドと両者を別にせず、一体化したものと理解されるべきなのであろう。ちょうど「甘え」が「甘ったれ」とちがって、「甘えるもの」と「甘えさせるもの」の相互性があるごとくにである。更に私の考えは飛躍して、未生怨という心的外傷を背負った阿闍世が、釈尊の「縁」に救われたように、コンテインと「縁」との関係を考えてみたくなるのである。

精神分析は輸入学問と云われる。しかし、Freudが既存の学問とは別の当時、多発したヒステリーをはじめとする神経症を対象にしたメタ心理学を創始したように、われわれも直面している患者の病理に翻訳のあてはめだけでない目で理解したいものである。