兎角亀毛=評価の分かれるところに(北山 修)

私の研究やエッセィでは、「見るなの禁止」とその禁止を破って生じる幻滅のテーマが中心になることが多いのです。人には表と裏があるものと捉え、生産的な女性の背後に傷ついた鶴が隠されていたという昔話です。これを踏まえた、周囲によくある空想として、私もまた「つう」のような自虐的世話役を生きているのではないかと思われる方がおられます。
しかし自分のことを数十年かけて観察し、この異類婚姻説話の流れを私自身の人生や生活に重ねてみるなら、それだけでは大いに不足があるのです。私自身が自覚するところでは、大好きな「兎と亀」という話を加えた方が、私の生活の全体像としてはさらに正確になると思います。つまり、イソップの「兎と亀」の物語もまた、一人の人間の中で起きる人格の二重性の話であり、こちらは裏表というより昼夜の二重性です。まずは、「かける兎」のごとき私が、昼間は跳んで遊んで、あるいは懸命に働き、夜になると疲れ果て「疲れた兎」が横たわり目を閉じると、あるいは勝って良い気分で横になり目を瞑ると、倒れて眠る兎の後ろからゆっくりと「眠る亀」が立ち現れるのです。この亀は、ほとんど目を閉じ、歩みはのろく、夜は夢と眠りの中にいて、泥の中でまさに泥亀になることもあります。その間、ほとんど甲羅の中に閉じこもる亀の心はどこで何をしているのか自分でもはっきり把握していません。私がよく見かけるのは、覚醒に向かうところで少し顔を上げて黙考している「考える亀」なのです。
この朝方のまどろみの中で、私は亀でも兎でもなくその両方であって、一個で本来の「私」自身なのであり、その「私」はそこで沈思黙考しています。若い頃はここで子どもたちが私を起こしにかかったり、猫が顔の上に乗ったり、目覚ましが鳴って飛び起きたりでしたが、年老いて周辺がおだやかとなり、この中途半端な時間が着実に増えて来ました。本書はそのまどろみのなかで思いついたことを書いたもので、そこが私の創造性の現場です。